紙に、歳の数だけ願い事を書いて、その紙を境内や参道に貼りつけておけば願い事がかなう、と言い伝えられているお地蔵さんを祀ったお寺が、九州にあった。
いや、あった、というか、今もあるのだろうと思うが、残念ながら、名前が判らない。
名前も判らないお寺やお地蔵さんのことを、なんで書けるのかといえば、そこに、私自身が2回ほど、お参りというか願掛けというか、早い話が行ったことがあるからで、それなのに名前が判らないのは、行ったのが30年以上前のことゆえ、年数がたちすぎて思い出せない(忘れたともいう)からである。
当時、大阪ではなく九州の福岡に住んでいた私は、中学3年の時と高校3年の時の2回、両親と一緒に、そのお寺に行った。母の記憶によれば(母もお寺の名は忘れている)、そのお寺というかお地蔵さんは、福岡と大分の県境あたりにあったはず、ということだったが………この記憶も、どこまでが真実なのやら。
で、なんでわざわざ親子3人で、そんなところまで出向いたのかといえば、早い話が苦しい時の神頼み、信ずるものは救われる。私の高校受験と短大受験の、つまりは合格祈願のためだった。
ええ、しっかりと、歳の数だけ紙に願い事を書きつけて、参道の一角に、貼りつけておきましたとも。志望校に合格するか否か、私なりに切実なモンダイであったのだ。
お寺の境内は、参道といわず建物といわず、どこもかしこも、人それぞれの願い事を書きつけた紙でびっしりと埋まって、見ているだけで壮観だったが、当然のことながら、貼るべきスペースは、すべて、過去の参拝者の皆さんの貼りつけた紙で満員御礼。新しく貼る場合、すでに貼ってある誰かの紙の上に、重ね貼りするよりほかにない。
ごめんなさいねぇ、ちょっと、上に貼らせていただきますよ、と頭を下げながら、できるだけ古そうな紙の上を選んで、貼りつけたような記憶がある。なんで古そうなのを選んだかといえば、紙が古ければ古いほど、当然、参拝して貼りつけられた時期も古いわけで、その紙の願い事がかなったにせよ、そうでなかったにせよ、それなりに、とっくに時効だろう、と、勝手に解釈したからだが。
あれから30年以上が過ぎ、当然のことながら、私が貼りつけた紙の上にも、次から次へと、新しい願い事の紙が貼られて貼られて、また貼られて………うう~む、今ごろ、どうなっているんだろう。
紙に書かれた願い事を見ると、人生それぞれ、人さまざま、実にいろいろな願掛けがあったと思う。私のように合格を祈願したものもあれば、病気の平癒を祈願したもの、ごくごく自然に家庭の円満を願ったもの、恋の成就を願ったもの、その他諸々、エトセトラ。
しかし、その中に、ただひたすら、
金 金 金 金 金 金 金 金 金 金 ………
金 金 金 金 金 金 金 金 金 金 ………
金 金 金 金 金 金 金 金 金 金 ………
と、書かれた紙も、あったりして。
気持ちはわからんでもないけど、なんだかなぁ。
お地蔵さんへの願い事として、ちょっと、即物的すぎとちゃいますか?
ちなみに、願掛けから数ヶ月後、中学3年の春と、高校3年の春。
私は何とか、念願かなって、志望の高校と志望の短大への合格を果たすことができた。今となっては名は判らねど(これってバチ当たり?)、お地蔵さんのご利益のおかげであろう。ありがたや、ありがたや(合掌)。
ところで、紙にひたすら「金」の1字を書き連ねておられた、どこぞの何某(なにがし)様の「お願い」は、その後、無事に成就なさったのであろうか?
30年以上たった今になって、そのことがなんとなく気がかりな、今日この頃である。
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いや、あった、というか、今もあるのだろうと思うが、残念ながら、名前が判らない。
名前も判らないお寺やお地蔵さんのことを、なんで書けるのかといえば、そこに、私自身が2回ほど、お参りというか願掛けというか、早い話が行ったことがあるからで、それなのに名前が判らないのは、行ったのが30年以上前のことゆえ、年数がたちすぎて思い出せない(忘れたともいう)からである。
当時、大阪ではなく九州の福岡に住んでいた私は、中学3年の時と高校3年の時の2回、両親と一緒に、そのお寺に行った。母の記憶によれば(母もお寺の名は忘れている)、そのお寺というかお地蔵さんは、福岡と大分の県境あたりにあったはず、ということだったが………この記憶も、どこまでが真実なのやら。
で、なんでわざわざ親子3人で、そんなところまで出向いたのかといえば、早い話が苦しい時の神頼み、信ずるものは救われる。私の高校受験と短大受験の、つまりは合格祈願のためだった。
ええ、しっかりと、歳の数だけ紙に願い事を書きつけて、参道の一角に、貼りつけておきましたとも。志望校に合格するか否か、私なりに切実なモンダイであったのだ。
お寺の境内は、参道といわず建物といわず、どこもかしこも、人それぞれの願い事を書きつけた紙でびっしりと埋まって、見ているだけで壮観だったが、当然のことながら、貼るべきスペースは、すべて、過去の参拝者の皆さんの貼りつけた紙で満員御礼。新しく貼る場合、すでに貼ってある誰かの紙の上に、重ね貼りするよりほかにない。
ごめんなさいねぇ、ちょっと、上に貼らせていただきますよ、と頭を下げながら、できるだけ古そうな紙の上を選んで、貼りつけたような記憶がある。なんで古そうなのを選んだかといえば、紙が古ければ古いほど、当然、参拝して貼りつけられた時期も古いわけで、その紙の願い事がかなったにせよ、そうでなかったにせよ、それなりに、とっくに時効だろう、と、勝手に解釈したからだが。
あれから30年以上が過ぎ、当然のことながら、私が貼りつけた紙の上にも、次から次へと、新しい願い事の紙が貼られて貼られて、また貼られて………うう~む、今ごろ、どうなっているんだろう。
紙に書かれた願い事を見ると、人生それぞれ、人さまざま、実にいろいろな願掛けがあったと思う。私のように合格を祈願したものもあれば、病気の平癒を祈願したもの、ごくごく自然に家庭の円満を願ったもの、恋の成就を願ったもの、その他諸々、エトセトラ。
しかし、その中に、ただひたすら、
金 金 金 金 金 金 金 金 金 金 ………
金 金 金 金 金 金 金 金 金 金 ………
金 金 金 金 金 金 金 金 金 金 ………
と、書かれた紙も、あったりして。
気持ちはわからんでもないけど、なんだかなぁ。
お地蔵さんへの願い事として、ちょっと、即物的すぎとちゃいますか?
ちなみに、願掛けから数ヶ月後、中学3年の春と、高校3年の春。
私は何とか、念願かなって、志望の高校と志望の短大への合格を果たすことができた。今となっては名は判らねど(これってバチ当たり?)、お地蔵さんのご利益のおかげであろう。ありがたや、ありがたや(合掌)。
ところで、紙にひたすら「金」の1字を書き連ねておられた、どこぞの何某(なにがし)様の「お願い」は、その後、無事に成就なさったのであろうか?
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そうそう・・わるねこさんも一個だけ置いて
欲しいと思ってくださる方の所へ・・
幾つも幾つも有っても・・遺品整理と・・全部捨てられるからね
だから・思いを切ってあげることにしました
断捨離と生活をスリムにを兼ねて